ネットがつかえない

アラズヤ商店陳列作法

スイッチを押す瞬間に思ったこと

 

 

よく考えてみたら、これはむしろ "当たり前” の暮らしだということに気付いた。

 

太古の昔からヒトは太陽と共に暮らしていたはずで、そんな人々の一日は朝陽が昇る瞬間から始まって、陽の傾きと共に過ごすべき暗黙のスケジュールがあって、その全てを順調に過ごすうちに陽は暮れて、太陽が沈み、眠りに就いたものに違いないはずで。

 

火を焚き、電気を発明し、そうして自在に操ることの出来る ”明かり” というものを段階的に手に入れるうちに、人々の暮らしを照らす太陽は、二つになった。

 

天然式太陽と文明式太陽

 

天然式太陽と文明式太陽は入れ替わり立ち昇る太陽で、つまり人々は一日のうちに二つの太陽を手に入れて、次第に夜を忘れたのかもしれない。

暮れることを、恐れなくなったらしい。

 

文明式太陽がまだ灯らない夜に人々は、油断すると命さえ落としかねなかったのだけれど、文明式太陽が灯ってもなお人々は時折死んだり殺されたり殺したり、でも文明式太陽はあらゆる手段さえ生んで、そんな諸々全てを照らし出すことさえ厭わない、そんな万能に近い効果までをも人々に与えたらしい。

 

 

 

コンビニエンスストアや、ファミレス、ドラッグストア、ディスカウントストア、割と照明の類が過分に煌びやかなような、人々を羽虫のように光で寄せ集めたがるような過剰で大らかなような業態を誇ってきた、そんなそれぞれが近頃、それぞれの都合の時間をキリに文明式太陽の万能な効果を切り捨て始めている。

 

天然式太陽が沈んだのだから、我々も少しは眠ろうではないか。

 

そうではない。

文明式太陽はいくらでもその効果を発揮してくれるのだけれど、その元で暮らす人々こそが休みたくなってきた、眠りたくなってきただけのことだ。

 

つまり、当たり前のことだ。

 

当たり前のことを、人々は時給いくらで忘れることが、ふたたびうやむやにすることが出来るのだろう。

多分、もう無理だ。

 

 

あたしの店は、天然式太陽と文明式太陽がすこぶる順調に入れ替わり立ち昇る循環を、わりと平均して実現している。

 

天然式太陽が照らすうちは、文明式太陽は灯らない。

天然式太陽が暮らしの西側の稜線に沈む頃、文明式太陽はようやく灯る。

 

 

アカルサハホロビノスガタデアロウカ

 

 

とは誰の言葉だったか。

明るかろうが、誰もいなかろうが、昼夜を分かたず灯し続ける文明式太陽に、あたしはいち早く疲れのようなものを覚えてしまったのかもしれないわけなのだけれど、こうして今ようやくテーブルを、作業する手元を煌々と灯し始めた文明式太陽のアカルサという始まりの気配に、天然式太陽がくれた束の間の休息という価値のようなものを脆く単純に、案外満更でもなく思い当ってしまったりもするのだ。

 

文明式太陽は、そもそも人々の夜を照らしてくれるものだった。

煌びやかに彩られるようになって、人々は昼も夜も変わらないと、勘違いしてしまったのかもしれない。

"便利” と思いついてしまったのかもしれない。

 

 

逆転したのはどっちだ。

あたしの夜はいったいいつ訪れるのか。

それは何だか別のハナシのような気がしてしまう。

やってしまうことは昼夜も貫くものらしいから、それはエネルギーというまた別のハナシになるのかもしれない。

ここ最近、常にそんなことを企んでばかりいるからだ。

 

 

だからってあたしのお店は、天然と文明が入れ替わり立ち昇る、そんな "当たり前” の循環をわりと順調に眺めている、過ごしているはずだ。

 

企んだあたし自身がそう思うのだから、それはつまり ”当たり前” に違いない。