suffcuts の独人生相談

東御市R18 既存の価値観と勝手に闘ってるつもりのとんでもヘアサロン   サフカッツ のブログへようこそ

アメフトなんて、メディアに救われたいほどヤワじゃないでしょ

 

 

”悪質タックル” うるせえ。

いつまで言ってんのかなアホなのかな。

 

なんて、例えばツイッターとかにあげちゃう人なんて、まあまあそんなにはいません。

そんなことしても何のトクもないんだから。

 

似たようなことを、その人なりに考えている、感じている人は思いのほか少なくはないはず、と感じているんですけど、実際には ”日〇詰んだ” 的安牌に便乗する人の方が少なくないはず、ともついつい感じさせられてしまいます。

 

 

”少なくないはず” の汎用性に驚愕。

偶然の学び。

 

そんなことはどうでもよい。

 

 

 

”安牌” は "共感” を前提にした ”お題” 

ツイッターは ”フォロワー” という座布団で可視化する ”大喜利

 

 

 

社会問題よろしく共感焚きつけるも甚だしいメディアの報道なんて、もはや鈍感退屈者の脊髄反射にエサくれてナンボみたいな ”マスツイッタラー”

 

 

オワコンかどうかは知らないですけど、なるほどいよいよ、好きじゃないんですよ。

土俵問題、女人禁制、セクハラ開き直りパワハラ美人局吊るし上げ。

 

報道って何だ。

感情って何だ。

 

”女人禁制” をダシにして平然と語られる ”男尊女卑” とか ”男女平等” は ”大喜利” という ”共感” 向きのエサなんだろか。

"穢れ” の行き着く先を "女人" と前提する論調に、あたしは単純にムカついただけです。

"人はどこから産まれるんだ?” 

というあたりまえみたいな視点を前提とした "女人禁制” という思想の発端を定義しないままただ ”大喜利向き” 丸出しでいるだけの論調なんて、空々しさなんてクソだと思うんです。

 

だから、”セクハラ” も ”パワハラ” も、”野菜がたくさん摂れて女性には嬉しいですよね” なんてグルメアンケートで自らを女性呼ばわりして恥じらいも思いつけないただはしたないだけの性格ブスボキャブラリー貧困ブスがケツ撫でられた、程度の社会性でしか所詮語られないのだし、開き直りブスの便乗三流馬鹿議員どもが ”#Me too” なんてやっすく結託して出遅れたイマドキ感でむしろドン引きされるとか、所詮タテマエばっかみたいなオチになるだけなんだし、”おっぱい触っていい?” なんてその思考の恥ずかしさそのもの、相手への敬意の欠落を惜しみなく発揮して憚らない自惚れ馬鹿を野放しにした有権者っていう自省反省にこそこれっぽっちも触れないような ”配慮” たる糾弾なんて、ただのストレス発散でしかないじゃんか、としか思えないじゃないですか。

 

 

”悪質タックル” で怪我を負わされた選手の父上がフェイスブックで今後について言及された記事《議員としての活動を今期までとして、残りの人生のすべてを賭けてもこの問題を追及する(要約)》について、”巻き込まれた他の選手たちの為にもがんばってほしい” と記事を引用してツイートしている人がいて、あたしは瞬間に ”人生とかマジか” という冷ややかさにおいて、"大喜利” 的なことを思いつかずにはいられなかったわけです。

そのツイートはその後ものすごい数の ”いいね” や ”リツイート” を奢られているんですけど、あたしの感想はまったく変わりません。

 

 

世間、アホか。

 

 

です。

 

あたしが当該選手だったら、自分の親にそこまで紛糾のタネを撒かれたら正直ひきます。

気持ちは痛いほどわかるのだし、悪い気こそしないけど、”おやじ、俺もう二十歳。頼むからマジでやめて” くらいのこと普通に思います。絶対。

規模こそ全然違うんですけど似たような体験を、親がここぞとばかりに物申してくれた場面をあたしも体験したことがあったんですけど、そのときあたしは ”おや?! 悪くは無いけども、でもこれってやっぱり何かが違うぞ?!” って。小学6年生のときのハナシなんですけど。

 

被害にあった奥野くんも、ある意味彼自身も被害者であるのかもしれない宮川くんも、同じ学生フットボーラー。

その宮川くんの、あの真摯な、覚悟を振り絞った姿を見て、奥野くん本人は何を思っただろう。

”巻き込まれた他の選手たちのためにも” って、そんなさも慮ったような論調にわざわざケチをつけたがるつもりなど毛頭ないんですけど、あたしはただあたしなりに、”良心の安売り” なんてイジワルの一つも言いたくなるような共感の焚きつけあるいは要求とか、”大喜利” 的思考の連鎖あるいは反射のような、ある意味無思考といっても過言ではない、とあえて言い切りたいとさえ思いたくなるような感情の無責任のようなものこそを思いつかずにはいられないわけで、件の監督なりコーチなり、それを庇いたいらしき装いを隠さない関係各所の体質にはあたしも苛立ちを思いつかずにはいられないしクソくだらなくて同じ大人として腹立たしいですけど、ですけど、人の思いつくことっていうのは、感情とか理性とか思考とか何でもいいです、つまり、それに触れたそれぞれが思うことっていうのは、そんなにも画一的に、オートマチックに表現されて、共有されて、納得されて、承認されて、然るべきものなんだろか、と。

 

 

それをまんまとセンセーショナル然として引き摺ることが、”報道” っていうあり方なんだろか? 予定調和を察しながらふるわれるばかりの強弁が "共感" として共有されたものなんだろか?

 

 

満たされて人は馬鹿になる。

便利で人は無為になる。

 

 

どうして今、”価値” っていうことが盛んに叫ばれるのか。

その理由はまだよくわからないのだけれど、それにしても少なくともそれを ”生むもの” と ”与えられるもの” という視点においては、まったく意味の違うものになりかねないのではないか、ってあたしはそんなことを思っては常からイライラしてばかりいるんです。

 

”これまでの価値” というものは、生むものによってほぼ設定されてきた、つまりTVとか広告とか、そういう宣伝媒体によってモノの価値が予告されて決定されて流布されて、与えられるものたちはそれを認めて ”価値” としてきたはずなのだけれど、”これからの価値” というものは、”与えられる” のではなく ”受け取る” という立場としての猶予さえ与えられてつまり、”受け取る立場それぞれ” という判断、あるいは意思こそ求められる、もっと自発的な思考こそが作用して然るべきものであるはずで、その為にあたしたちの掌の中には滅法便利かつ危険でもある機器が与えられて、あたしたちはそれにしばられながら、それにしても思いのほか自由な判断こそを許されているはず、託されているはずと思うんです。

 

 

”巻き込まれた他の選手たちのためにも”

 

あたしはそういうの、まるで時代遅れみたいな ”誇大広告” のように思えて仕方がないんです。

実に ”大喜利” 的な、とか。

とても鈍感そうな、とか。

 

 

自由に発信出来るからこその、受け取れるからこその ”思考とリテラシー” 

 

 

あたしはどちらかというと ”事実らしい事実” より、”直面する場面にリンクしたがる想像力” のようなものをより信頼したい派です。

即座に行き渡るほどのテクノロジーだからこその ”個” という想像力。

 

テクノロジーによって人に生み出されるべき刺激のようなものは恐らくそちら側で、目を覆いたくなるような映像とか、過激すぎるエロとか、そういうモノはむしろ想像力の短絡化を招くばかりのテクノロジーの反側面ともいうべき余剰でしかないような気がするのだし、あるいはツイッターとかインスタとか、そのテクノロジーと人を結ぶ機能を雄弁に使いこなす一部のインフルエンサーと呼ばれる人たちはあたしも本当に憧れるし学ばせてもらっているつもりでさえいるのだけれど、その反面、そんな人たちに影響されたい人、巻き込まれたい類の人たちが嬉々として雄弁を振る舞う感じ、舞い上がるように奢る瞬間風速みたいなポジティブツイートの類が滅法苦手で、オンラインサロンとか、これからますますその意義を自発的に背負って開発されていくらしい分野はあたしみたいのですら全然おかしくないとは思えるのだけれど、それを仕掛ける立場と、巻き込まれたがる立場でしかないものとでは、その思考とか欲求のようなものには見るに堪えないほどの深遠なる溝、とまでは言い過ぎかもしれないのだけれど、単純にその目的とか、理由とか、あえて言葉にするまでもなく漏れてしまうような類のもの、つまり結局のところそういうものこそ思いついたその人 "個人” のもの以外の何ものでもないという事実とそうもいかないという威力の発動、打ち寄せる波のような自然さ極まりない有り様に、魅せられるばかりの人は引き寄せられるばかりなのだけれど、”楽しい” とか ”夢中” とか、その無用心極まりない感情の露出のようなものが、無邪気さが、性格の悪いあたしみたいのには滅法主体性を欠いた、思考薄弱な、あるいはどうしようもなさの欠落とかクソという自覚の欠如とか、なんていよいよ身もふたもない物言いに堕ちはじめてきたのでそろそろやめようと思うのだけれど、何だかこの世はこんなにも満たされて、だからこそなのか何なのかどうしてこんなにも手軽く仕出かしたようでいられるものなのか、手軽に同調して撫で下ろしたがるものなのか、その思考性のようなものが甚だ疑わしくて仕方なくさせられるんです。

 

 

そんならしい世の中にあって、自分こそどうだ。

 

 

 

そういう混沌とした瞬間を詰んでばかりで、少し疲れたと感じてしまう日はよくあることです。

 

 

でも考えないわけにはいかないのだし、それは正解でも間違いでもない、ただ ”個人” っていう思考以外の何ものでもないはずなのだから、炎上とか、それは所詮システムの過剰供給のような現象にすぎないのかもしれなくて、”個” も ”事実” もあったものではない、ただの暇つぶしのようなものだと、その ”価値” こそを疑うこととするのです。

 

 

ツイッター、好きです。面白いから。

だからこそ、イライラする。

 

ハマりすぎ? 年甲斐もなく(恥

 

 

 

人の仕組みは何かにつけ似通ったものらしいから、出来れば努めて精度よく、品よく、清潔に使いこなしたい、とは思うのだけれど。

 

 

 

 

 

 

その人が暮らす場所、というハナシ

 

5月も後半だというのに、どうしてこんなに寒いのか。

オナカが寒いのが超絶苦手なので、年間のほぼはタンクトップをインするおじいちゃんなあたしなんですが、それに加えて今日は長袖のTシャツ、その上にせめて見た目に暑苦しくないように白のプリントTシャツを着て、その上にアクリル混のカーディガンまで羽織ってます。

 

それでも寒い。

ウチの中だというのに。

 

 

低体温になって死んでしまうほどの場所に、自ら向かいたがる人の気持ちなんて、あたしには全然理解できません。

っていうか、わかりたいとも思わないです。

聞かされたところで、諭されたところで、所詮わかるはずもない。

っていうか、そんな気になんてなりたくもない。

 

 

”執着してしまったのかもしれません”

という関係者の方のコメントに、げんなりさせられてしまいました。

カンタンにそんなことは言うべきではないのだし、なにしろあたしは割と ”世間らしい” 論調には常に違和を思いつきたがるたちなのでそれは尚更、カンタンに言うべきではないと本当思うんですけど、本当に壮絶、その壮絶なまでの信頼関係のようなものに、一瞬でげんなりとさせられてしまいました。

 

当人のハナシなんか、するもんじゃない。

 

っていうのは常からのことで、あの名前を既知らしく正確に読めたのかどうかもわからないような立場で、その当人に寄せる、寄せたがるコメントなんて、土俵がどうしたセクハラがどうした、って近頃の ”もっともらしき論” みたいなものを振りかざすばかりの ”世間らしい” 感じと何一つ変わらないような気がしていて、何言われようがそんなこと知らないです、あたしはついつい別のことばかり考えてしまうタチです。

 

 

”冒険家” という職業があるのか、そんなニッチな欲求が商業的価値として認められているものなのかは知らないんですけど、あたしはその個人を好意的に称えるばかりの論調があまり好きではありません。

 

”その高い山に登って、だからどうなの?”

 

って、ひどい言い方なんですけど、全部ではないんですけど、絶対に心の一部に、あたしの心のどこかに絶対にあるんです。

 

 

”「否定という壁」を無くして、見えない山を登る全ての人達の支えになりたく”

 

 

っていうのは彼のツイッターのプロフィールにある言葉なんですけど、なんてでっかい違和の抱え方なんだろうって、ほんとうに気持ちとか心を突かれます。

 

想像するだけでもいろんなことを考えてしまいます。

それはほんとうに正直で大きなテーマだったのだろうし、あるいは自分を支えるという意思においてある意味とても利己的なまったく個人的な苛立ちのようなものを肯定するための武器でもあったんじゃないのか、とかつまり、世の中に大きな影響を与える人っていうのはほとんど共通して、強烈に利己的な欲求こそを原資にして、ある一定のレベルや影響力を手にしたあたりからその何倍もの欲求や威力を利他的な価値に変化させて強力な影響とか功績を残す、与えるみたいな存在の仕方をする人だと思うんですよね。

 

つまり彼は彼としてただ、そういう大きな心の持ち主だったのだろうなあ、って痛ましく思ったり、憧れたりするばかりです。

凡人として。

 

 

 

凡人として、ってことです。

凡人として、正確に凡人でありたい、からこその ”世間らしい” への ”違和” ってことなんですけど。

 

 

 

すっごい冷めた話です。

ムカつく人にはムカつく物言いになると思うので、そんな予感がある人は今のうちにお引取り願います、と一先ず。

 

 

”その高い山に登って、だからどうなの?” っていう件。

 

登りたくて登るんだから、それはつまり、"勝手にしろ” なことだと思うんです。

”あの山の頂上に、X国による電磁波攻撃から全国民の命を守る為の装置を何としても送り届けなければ!” って例えばそんなトンデモ社会派ヒューマンSF(なんだそりゃ)みたいなやっすい設定を持ち出してみたりするんですけど、つまりそういうこと。

何かしらの任務とか目的を背負っていなければ全ては "勝手にしろ” なことだなんて言い切るつもりは毛頭ないんですけど、(教科書の冒険家が新大陸を発見したことと、空気も生存し続ける余地もない未踏の地に果敢に挑むことは "その後” という在り方においてのみでもやはり別モノ、という気がしないでもないとゲスなこともやはり言ってしまうのだけれども)それにしても、何だか釈然としない。

 

 

あたしはその "実際に死ぬだけ寒い” ところには行っていないのだし、行きたいとも一生掛けても思うはずもないのだし、だからと言って、その彼があたしみたいな人生を歩むはずもなかったことだってその ”価値” としてあたしのクソポンコツさくらい余裕で認めて文句など微塵もないんです。

 

ただ。

 

登るのは、登りたいから登るんですよね。

そればっかじゃないことも人様の人生なんだからあるのかもしれないですけど、基本は、っていうハナシです。

 

”登りたいんだから、登りたい本人は絶好調シアワセ”

 

 

それはけっこうだ。

だからってじゃあ、”見送るばっか” の人はどうなんだ。

 

 

三浦雄一郎さんが歴代最高齢で登頂に成功!! って誰も彼もが褒め称えたけど、それはものすごいことなんだろうし単純に体力とか、その為の自己管理、人を巻き込む人間力とか、人生における様々な要素において人並みよりずっと優れておられる方なのだろうとは思うのだけれど、”だから? 高い山に登って、だから?” ってそれを達成した本人に対するということでは全くなく、それを手放しで称えたがるばかりの ”世間らしさ” らしきにこそどうにも苛立ちのようなものを思いつきたがって仕方ないタチなんですあたしは。

どうでもいいでしょうけどもそんなことこそ。

 

 

でも黙っていられないのだしいい機会だから言ってしまうのです何しろここはあたしばっかのちっぽけでクソポンコツで死ぬほどつまんないだけのブログ記事なんだし明日にはただの過去に成るだけのゴミクズみたいな文字の羅列なんだから言ってしまうんです気に食わないならほっといたらいいのさウスラボケが黙ってろっつうの。

 

 

 

えっと。

 

あたしが三浦雄一郎さんの家族だったなら、”とりあえず家族の縁切ってから行って下さい。それから勝手にしてください好きにしてくださいやってらんないです心配するばっかなんてそんなもんアホかですどうぞよろしく” くらいのことはあたりまえに言わせてもらわないとやってらんないってことです。

サイテーですか? ああサイテーですとも。

 

 

そんなもん、やってられっか。

大切な家族が、興味やら使命感やら志だかなんだか知らないけどそんなものばっかを理由に死ぬかもしれないことやりたがるばっかなんて、正直キレます。

面倒くさいですそんな勇敢さなんて。

大きさなんて。

 

狭小で卑屈で臆病なばっか、安全安泰主義のカタマリみたいなあたしに言わせれば、そんな面倒なモノは人生を狂わす混乱させるばっかのただの爆弾です。

しかもその爆弾、炸裂しても死ぬのはその本人ばっかでこっちはただただかなしいさみしいでもほこらしいとか分けわかんない了解を求められるばっか地獄が待ち受けてるばっかだなんてほらもうサイアク。

 

 

つまり、やってられっかそんなもん。と。

食い止めるだろうそんなもん普通。と。

 

 

ああ、書いていて思った。

あたしがいると、あたしのムスメは、したいはずの冒険も出来ないんだな。

自分ばっかの冒険すら、諦めなければならなくなるんだな。

 

 

早く死のう自分。

いなくなろう自分。

 

 

ってまあ、そんな一家庭のことはさておき。

 

 

 

 

つまり何が言いたいのかって、”登った本人ばっかじゃねえだろ” ってことなんですよ。

本人の意志を咎めることなくそれどころか励まして応援してまで見送ってあげられる、自分の不安や心配を押し殺してでも支えてあげられる、そういう様々な関係者も含めて称えてあげて、っていうかあたしは勝手なので、むしろそっち側の人々ばっか褒めてあげて、って思うくらいです。

 

極端なんですけどつまり、”冒険家” とかその辺のフィールドに魂もやすタイプの人、ただ単に羨ましいばかりに苦手すぎなんです個人的に。

 

 

エベレストに捧げた彼のことは知らないです。

でも、あの青黒く壊死した指の有り様は忘れられない。

そんなことばかりを理由に、彼という志がこんなちっぽけな場所にさえ伝えてくれた景色や気持ちに、あたしなりの畏敬の念を込めて言うんです。

どうせ伝わるわけないんだし。

 

 

 

 

”あんたの遊び場、でっかすぎなんだよ馬鹿なんじゃないの。この勇敢なシアワセモノ。おつかれさまでした”

 

 

 

 

 

彼のフェイスブックに書かれていた小林さんという関係者の方の ”執着してしまったのかもしれません” というコメントが全てだと思っています。

何という壮絶さと勇敢さと意志と勇気と不安と心配と約束でかたく結ばれた有り様、何て贅沢で大きな人生を過ごされてきたんだろうと、ただこんなちっぽけな場所でその喪失を思います。

 

 

 

 

あなたと面識などないのだけれど、栗城史多さん、おつかれさまでした。

 

 

 

 

 

憂鬱は満たされて思うこと

 

 

 

”人生100年” 

 

なんて、そんなものは平均的にはウソに決まってるんですし、”元来人間のカラダは120年生きられる仕組みで産まれついているのだけれど、後天的な事情、つまり生活習慣や行い、考え方や努め方によって80年であったり60年であったりとそれぞれに目減りすることになるんです” みたいなことをあるべき生き方の根拠にように語りたがる類のヒトがあたしはあまり信用ならないタチなので、やっぱり100年とか、そもそもそんなにはいらないなあと。

 

 

あたしの場合、この春に一人娘を無事にかどうかはそれぞれの感じ方とはいえ、一先ずは社会人として送り出してしまった立場でいるつもりなので、もう誰かの為に、といったおこがましいような義務感に苛まれながら日々を暮らす必要はないのだと、勝手にすっかり決め付けています。

 

そもそも、誰かの為に何かが出来るような甲斐性などこれっぽっちも持ち合わせないクソポンコツですから、別段暮らし向きに変化のようなモノはないのだけれど、それにしても後悔とか、あるいはそんなモノを打ち返して敵う程度のごく個人的ではあるけれど人生の挑み方のようなものとかには努めて意欲的に、日々の暮らしの中でも自分ばかりにはごまかしの利かないような素振り程度は努めるよう心掛けているつもりくらいはあって、例えばこうしてほぼ毎日ブログを書くということや、触れるものに触れた折には自分なりの思慮を怠けないこと、見聞きすることを鵜呑みにするばかりではない、啓発的な理解のようなものを出来る限り自分自身に投げかける習慣とか欲求のようなものに積極的に挑むこととか、つまり、100年もいらないけどそれにしてもこの先あと何年残されているのかも知れない人生をどんな風に過ごしたいのか、進みたいのか、在りたいのか、何なら、まだまだこの先に望みたいような展望を思いつけるのならば出来るかぎりそれに向けて働きかけられる興味やタイミングのようなものを受け流さない、面倒臭がらない明るさ逞しさを自らに蓄えること、活用すること、実行することを面倒でも言って聞かせて努めるのだし、当然と思いたいつもりでさえいるわけです。

利口ぶってるでも格好つけてるでもなく、そうしたい、っていうだけのこととしてです。

 

 

あなたはまだ若いからいい。自分のように歳をとってしまうとどうにもそうはいかなくなる。

 

 

と、とある方に言われたことがあって。

それはそうかもしれないと思う端で、それをその時ばかりの感想のように思いつくのだとしたら、そんなのはイヤだなあ、とも思わされたりするわけです。

 

その時になってみなければわからない、というのはもっともな言い草で、確かにあたしは ”宇宙人はいます” とただそう言われても、実際に目の当たりにするまでは信じる気にはなれないのだろうし、”ずっと愛してる” なんて囁かれても、過去に体験した裏切りによって刷り込まれたカナシイ気持ちを忘れ去る方法なんて思いつけそうな気はまるきりしないのです。

 

だからこそ、というわけではないのだけれど、あたしは割と日頃から構えるように、挑むことやら諦めることやら下手に触らないこと、とか、つまり自分なりに都度思い当たることについて、その清潔とか、イビツさでもあるのかもしれない所詮ゆずれなさのようなもの、誤魔化せそうな気がしないものなんかについて、もがきがちであることをあまり恐れないように、悲しがらないように努めることは心掛けているつもりでいて、”あんまりヘンなこと考えないほうがいいよ” なんてことは日頃から言われがちではあるのだけれど、それを今見過ごしてしまったならこの先、つまり ”その時になってみなければ” というようなその場面に行き当たったその時に、”どうにもそうはいかない” なんて黄昏るような文言を徒に思いつかなければならなくなるような事態よりはまだ余分に一歩でも、余計なことにしがみ付けるような気力を一つでも余分に、あたりまえみたいに思いつけるような明るさ逞しさこそをちゃんと自分にくれてやれるための今からの心掛け、のようなものを何となく意識的にけしかけるようにしているつもりではいるんです。

 

 

100年。

 

そんなには、いらねえ。

 

 

でも、こういう仕事をしていると ”50にして絶望” みたいな人の感情に出会ってしまう場面は少なくはなくて、そのたびに ”どうしてなんだろう” って、全くの疑問を思いつかされて、ものすごく口幅ったいような気分にさせられたりするんです。

失礼かも、なんですけど。

 

 

 

隣の芝は青く見える。

 

とはいうものの、それにしても、青くないことない人ばかりのような気がして仕方がない。

それは特定の個人というハナシでなくほぼ世間、社会とか世というレベルのハナシに違いないと思うのだけれど、得るものを得て、挑むべくして挑んで尚、信じられずにいるみたいな人が、近頃多すぎるように思うんです。

 

とても生意気なことを言ってるかもしれないです。

 

それにしても、ってハナシです。

例えばあたしは、月の何日だからってお給料が振り込まれるなんて安心の中で暮らしてはいません。

そんな暮らしがもう10年以上です。

お財布はいつも空きずき。貯金なんてあってないようなもの。クルマはポンコツ。住まいは築25年のボロマンション。一人娘は高卒で地元就職のアニメ好きで夢もへったくれもない。きっと心のどこかであたしのこと恨んでる。

そんな暮らし。

でもあたしはたまには小説を読みたくなるのだし、アイドルにこころほだされて仕方ないのだしそれはムスメも巻き込んでのことなのだし、自転車で散歩することで思いつける気分を見過ごせないのだし、日々のお弁当作りの彩を怠るわけにはいかない。

そういう単純な個々の取り組みを思いついて実行できて、それがそれぞれということではなく自分の中の根っこのようなところで一つになって初めて思いつけるような何か、そういう欲求のようなものこそを常にアップデートしていきたいとそうあるべきと願っているのだしそのつもりでさえいるのだし、そうしてこの先、”どうにもそうはいかない” となったときに ”けれどそんなわけにもいかない” と自分自身こそを奮い立たせられるようなアイデアをまったくあたりまえの習性のように思いつけるようにしておきたいのだし、過去の自分にとって今日の自分は全くそうして存在しているつもりで勝手にいるのだしつまり、これからもそうあるべきと自分ばかりで信じて疑うつもりなどこれっぽっちもないんです。

バランス悪いことくらい、当然と思っているんです。

普通に、普通以下です。あたしなんてのは。

 

経験がそもそもない、ということなんだろうか。

満たされることで思いつかずにはいられなくなるような不安のカタチが、あたしは余り好きではありません。

想像できないでもないのだけれど、そうじゃないでしょ、くらいのことこそつい思ってしまいます。

 

明日の不安への対抗策は、今日にある。

今日を怠けた明日の為に吐きたくなる言い訳、それが愚痴。

 

今日が明日の為の訓練である得るなら、100年まではいらないけれどそれにしても、少しでも余分に生きたくなるようなこの先を彩る術は、ちゃんとあるのではないのか。

 

 

自慢ではないけれど、あたしは年齢より明らかに若く見られます。

それはもうこれまでの人生ずっとそうだから、仕方ないです。

苦労が足りないせいもあるのだろうしそんなものこれ以上全然欲しくもないんですけど、何しろあたしはあまり欲しがらないくせに、期待することも案外あきらめていないところがあるんです。

もうキャリアの半分を過ごしているし、世間からの期待値なんてほぼゼロのようなものであることも充分自覚しています。

 

ただ、そういうの ”つまんない” って、ちゃんと思えるタチのつもりでもいるんです。

 

世間がどう思おうが、あたしはこれまでのキャリアのほとんどを勝手に生きてきてしまったから、この期に及んで世間がどうのとか、そういうの全然興味ないんです。

そういう ”胆力” のようなものばかりは自分なりにかなり鍛えてきたという自負だけは、実はないでもないでいるんです。

気持ちまで老け込むつもりなんてまるきりない。

 

 

アテにしたところで、相手にもされねえ。

っていう世間っていうシステムの残酷のようなところをずっと、産まれてからずっと生きてきたタイプです、あたしは。

生い立ちなんて、ハッキリ言ってヒドイです。

親を恨むつもりなんてこれっぽっちもないけど、世間的には多分相当悲惨。

 

 

人は世間とか社会で生きて暮らして、何を満たしたいのか。

あたしは実力もないくせにただ好き勝手に生きてきたばかりだから、例えばお金とか、そういうものにはまったく縁がなくて、働いた分のお金しか手にしたことがないです。

清々しいくらい、働いた分だけ。

ボロいハナシ、上手いハナシなんかあったことないです。

余分なもの、手に入れたことがない。

 

でも、あたしはあたしなりに関われる ”世間” にはちゃんと関わって生きてきたつもりではいるので、その中で感じてきたもの、選んできた価値のようなものをそこそこ信頼できないこともないつもりでいます。

 

 

100年もいらない。

でも、あと残りどれほどあるのかわからないこの先の人生も所詮これまで通り、そうしなきゃ納得出来るわけないもの、ってそんな基準ばかりを見逃さずに誤魔化さずに進んでいきたいと、どうせそんな風にしか出来るはずないと思っているので、”50にして絶望” みたいな心境なんて絶対に間違ってる、人はそんなにまで退屈していいはずがないっ” って臆面もなく力説して絶叫して、やりたいことをやれるように進んでいきたいと思うばかりです。

 

 

つまんないのは、自分のせいだ。

きついことです。

 

 

 

二宮金次郎を成仏させたい、というこれからのハナシ

 

 

基本的に、”理解されている” という気がしたことがありません。

 

それは ”日常” であったり、”感情” であったり、”劣情” であったり、つまり何かに付け共感を得られた気持ちになれたことがない、ということです。

 

あたしは基本 ”馬鹿” のくせに、それにしても世の中というモノはいついかなるときも、敏感を装いながらその実まったりと平坦で無難で退屈なモノであることだなあ、なんて嘆きたくなるような気分ばかりを常々思いつかされて止まないでいるワケです。

 

馬鹿なので。

 

 

例えば、あたしは割と頻繁にお店のLINEメンバーに一斉メッセージを送りつけたりします。

文章、というよりは ”リズム” とかそんなところを意識した言葉遊びのような文言ばかりと、たまたま目に付いたような時事ネタ系記事のURLなんかを貼り付けて、”おはようございます” なんて、そればっかりを言いたいがためにやけに小うるさいことを仕出かしてしまったりします。

 

どうして、そんな面倒な、迷惑なことをいそいそと努めたらしく仕出かして憚らずにいられるのか?

 

受け取る人のほとんどは、そんなこと考えもしないのだろうしむしろ、“大変そうだなあ” なんて、あたしんちの不調や不幸を期待したがるようなことばかり思いつきたがる、世の中なんて所詮そんなやつらばかりなんだ、ってあたしなんかは普通に思っていたりします。

 

 

だから、憚らずにいられる。

所詮、開き直り。

 

 

って、

本当に、そう思いますか?

 

そうそう、世の中なんて所詮その程度だ。

他人の不幸をダシにして、てめえの不安撫で下ろしたいばっかみたいなクソ根性したやつばかりだ、ってあたしはさ?

 

 

違いますよ。

面白いから、やってるんです。

それだけ。

 

こんなに便利なものがあるのに、それを有効に活用しないなんて馬鹿げてる。そんな鈍感があるか、って面白がってるだけです。

 

 

”大変そうだなあ” ?

ああ、確かに大変です。

そんなクソみたいな根性ばかりオートマチックに働かせてしまう奴を相手にしなければならないのは確かに大変だし、何しろ不毛そればっか。

 

そういうのに巻き込まれると、せっかくの努めも台無し、どころか多分マイナス。

精神っていうのは所詮脆弱なものだから、意図しないネガティブな要素に少しでもこすられると、いとも容易くしょげてしまう。

 

 

馬鹿らしい、そんなこと。

 

そういう ”精神” のようなものこそがあたしの何よりの ”努め” で、何より思うことは ”頑丈に貫きたい” とか、そんなことばかり。

 

やりたいことで生きたいばかりの精神を、給料を盾にして嗤いたいような輩に見透かしたように扱われることは思いのほか重大な不愉快さで、”そんなもんか” ってあたしは所詮 ”世の中” っていう鈍感さ、臆病さ、けち臭さこそを笑い飛ばすしかないような気分ばかりを思いつくしかないような立場に押しやられるしかなくなってしまう。

 

 

 

この見苦しいばかりの宣言は、”整理” です。

あたしが積極的に思いつきたがるばかりのことに、反射的に ”ネガティブなこと” を思いつきたがるような考えのヒトは、ぜったいにウチには向いていないんです。

っていうか、あたし自身がそもそも歓迎できるはずがないということ。

 

 

”お客様は神サマです”

 

なんて精神論はすでに過去のモノ。

あるいは ”二宮金次郎” をして重んじられた ”勤勉さ” すら、これからの世には単なる ”鈍感な減速” でしかありえなくなるのかもしれない恐れはもはや隠し切れないはずで、つまりそんなことにも気付けずにいる鈍感さを、”大変そうだなあ” なんてことばかりを思いつきたがるような臆病さを、あたしはこれからのあたし自身のためばかりですら積極的に排除してゆきたいとあたりまえのように考えるのだし、それは必ずこれからの ”本流” と成り得る精神性のハナシだと思うのだし、何しろこの世はすでに飽和、つまり、好き好んでありきたりのようなものを欲しがる必要などない水準にまでとっくにのぼせ上がっているはずなのだし、そんなのぼせた精神を今更 ”神サマ” などと奉る必要などあるはずもないのだし、しかもこともあろうにこの世は対価、つまり価値に対する評価を差し出すことこそがまったく必然としてすでに通用し始めているのだし、それはテレビから押し付けられるばかりの受動的なモノなどではなく、欲しがるからこそ積極的に取りにいく、知ろうとする、そういう ”積極性と理解” の先でこそようやく真価を発揮する、そういう態度をまったく堂々と獲得しようとしているのだからあたりまえです、こんなあたしですら、”整理” することを積極的に理解しようと、そんな生意気さをあたりまえに思いついたりするんです。

 

 

つまらない。

 

積極的に努めたいだけのことをネガティブにしか理解したがらないような精神は、つまらない。

用がない。

 

 

目的に覚えがあるのなら、それはカンタンなこと。

望まないことなど、どんどん切り捨てていこうと、あたりまえみたいに思うんです。

 

生きているのは自分の人生なのだから、優先するべきことを間違えたらダメだと、近頃殊更に思います。

 

自分の人生を台無しにするのは自分なんだと、近頃殊更に肌に触れるように感じるんです。

 

 

人は時代を生きるのか。

人が時代を彩るのか。

 

 

いい時代はすでに足元にある、と近頃殊更に感じるワケです。

 

 

二宮金次郎先輩に最大の敬意を表しつつ、お引取り願いたい。

 

 

 

わからない人に、用などないんです。

 

 

 

明るくて逞しいハナシをしたい。

 

そんなことも思いつけずにいるなら、それは自分で自分の人生を台無しにしているだけのことなんだと、あたしは積極的に忘れたいような気分を思いつくんです。

 

 

 

あたりまえみたいなハナシなんかいいから、”変わり者 ” みたいなハナシを恥ずかしがらずにどんどんしよう。

ウチはどうせ、そんな場所になりたいばかりなんです。

 

 

つまらないことに、用なんてない。

 

 

 

 

 

 

ダラダラと熱心に取り組むヘタクソ

怠けているつもりはこれっぽっちもないのですが、今日もお店はやってません。

 

平日昼間の集客なんて、ウチはこれっぽっちもアテにならないので、やりません。

 

そうすることで、"不便" を思いつかれたとしても、所詮大して "アテにならない" のだから、気にするだけ恐らくはソンのはずで、何しろウチはウチとして継続して、何ならやりたいようにやりやすく継続させなければ意味がないので、"不便" とか、その程度の "常識?" のようなものにいちいちかかずらわったどころで上手いことも快適なこともあるわけないどころか、効率悪いし無駄が出るし、意味なく疲れることの方が多すぎるので、やっぱりやりたくないことはやらない方が天才、ってことを実現するべきと当たり前のように思うわけです。

 

 

怠けているつもりなんて、これっぽっちもありません。

うそじゃないのでしつこく言っておくんだな。

 

誰だってそうだと思うんですけど、"商売" なんてことをやっていれば、自ずと "そのことばかり考える脳" になっちゃうんですよ。

 

そういうのを、"大変" と名付けたいタチの人は、サラリーマンやってたらいいんです。

拘束時間内だけバッチリ仕事して、その他の時間は好きに過ごす。そこに仕事を持ち込むのか離れられないのかはその人の勝手とか能力の問題と思うので、"好きにすれば" ってことだと思うんです。

 

あたしは仕事のことばかり考えるのは苦しい時も普通にありますけど、基本キライではないんです。

っていうか、それしかやることないっていうかやりたいことがそれなんだし、それが興味なんだし仕事ばかりとも思えないのだから仕方がない。

やりたいことなのだから、仕方ない。

苦しくても気になってしまうと、やらないよりやるしかなくなってしまうばかりっていうのは、多分 "やりたくない" よりは "やりたい" の方に近いはずなので、少なくともあたしの毎日の中に "退屈" が紛れる隙間はほぼないつもりでいます。

大したことはまだ何一つ仕出かせてはいないんですけど。

 

 

実働は、少ないです。

他のこともやりながら、家庭とか、暮らしとか、そういうこともこなしながら常にアタマの中で考え続けているし、ようやくお店にたどりついた、そのことばかりやっていい考えていい時間でも、そのほとんどは考えるばかりで、実働として結果に残るカタチはかなり少ないです。

 

今、イチバンこだわっているのはつまりこういったネットにまつわる注力のようなもので、どうでもいいことばかり書いてるんですけど、そのほとんどは自分なりのかなり要領の悪い模索の数々で、だから、今もこうしてこんな時間に、しかも全く無関係な出先の空き時間にブログを書いたりしてます。

 

傍ではスマホゲームに入れ込んでる人とかアイコス咥えてネット記事読み耽ってる人とか、いろんな人居ますけど、ブログ書いてるのなんか多分あたしだけです。

我ながら偏執的だとは思うんですけど。

 

やりたいことが片時もアタマを離れない類のモノである以上、いかにそれに時間や手間や知恵をつぎ込むことを惜しまずにいられるのかはかなり重要な問題になってくると思ってるんです。

要領悪いなりにってことですけども。

 

今やろうとしていることは、望みたいらしい効果のようなものに対して、かなり能率の悪い手順を踏まなければならない性質のことだとはわかっているんですけど、例えば職業として要求されるような性質のモノとは恐らくは違うものと思っているので、あまり気にしないというかむしろ、そういうとりとめのなさにこそ誤魔化されないように、目的とか目標のようなものを忘れないようにしなければなあ、と時に戒めのような気分をわざわざ思いついてみたりもします。

 

やりたくてやっているのか、単に依存しているだけなのか、便利な分だけこういった取り組み方っていうのは自分さえ騙すこともカンタンなはずなので、バランスのようなものも常に意識したいつもりではいるんですけど、こうしている間にも言わなくていいことまで言ったりとか、言うべきじゃないことまで言いたくなったりとか、バランスとか何言ってんだアホか、みたいな感じから所詮抜け出せずにいます。

 

適性とか、おっかない問題はいまのところ触れないことにしています。

そんな慎重さこそを重要なカギとして、むしろ機能させたいところでさえあります。

 

 

 

だからって、眠れないなんてことはあり得ない

もしたら、"440" だったかもしれない。

 

ってそんなことどうでもいいし所詮意味わかんないですし、そんなことより何より "ここらへんでウチくらいヘンなブログ書いてるお店なんかない" 的なことを力一杯書いたんだけど、その意味とか、全然ぶっ飛んでくれてマジで残念です残滓に絶えません、って政治家みたいな言い草ぶちまけても不完全燃焼の不燃ガスが胃のあたりで渦巻いて、"こりゃ夢見ワルいですよ" って余計なお世話みたいな予告囁いてうるさいんですよほんとムカつく。

 

そんな程度であってたまるか。

 

所詮おやすみなさい。

 

 

 

 

虚脱リターンズ

 

 アイドルのことばかり書いていてさすがにヤバすぎると思って、”たまにはちゃんとしたこと書こう!” ってリキんで3時間。

 

まあまあなこと書いちゃったぜわれながら。

 

って調子こいて公開したはずが、

 

 

404 error

 

 

ってなんやねん突然。

 

 

 

全部ぶっ飛んだ。

3時間。

 

 

カルく死にたいほどの虚脱。

 

何コレ。

 

 

 

 

ちょっとダメ、立ち直れないですおやすみなさいもうムリ

 

 

 

 

あああああああ

 

 

 

 

 

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